当ページでは日本における野球の歴史(主に明治時代)を中心として記します。
明治政府によって欧米に留学し、後に帰国して野球を伝えた人がいる。
それが平岡煕(ひろし)である。
明治4年、16歳で渡米し、現地で見た汽車と野球に夢中になってしまった平岡は、
帰国して新しい『交通』である機関車製造の技術を生かすために明治11年新橋鉄道局に就任し、
そこの鉄道技師達と日本初の本格的野球チーム『新橋アスレチック倶楽部』を結成した。
ユニフォームを作ったのもこのチームが初めてであり、
平岡は日本で初めて『カーブ』を投げた人物なのである。
ほぼ同時に平岡が英語教師をする三田の徳川達孝伯爵が、
『徳川ヘラクレス』という野球チームを作った。
このチームのユニフォームは真っ赤なものとグリーンのものが作られ、
いざ試合となると赤組と青組に分かれ鮮やかであったという。
初期の日本の野球はこの両倶楽部かリードしたのである。
俳人、正岡子規であるが。
彼は自らチームに加わり捕手として鳴らし、時には投手もつとめたほどである。
彼はプレイだけでなく詳しいベースボール論も書き残している。
また、明治23年、友人にあてた手紙で本名の升(のぼる)を、
もじって野(の)球(ボール)という雅号も使っている!!!。
これが初めて野球という言葉が使われたものなのだ、
子規がこれをベースボールの訳語と考えていなかった事は後の子規自身の文章に
『ベースボールは未だ曾て訳語なし』と記しているのを見ても明らかであろう。
当時和歌に凝っていた子規の詠んだ歌である。
『野球』の命名者は子規の後に一高に入学した中馬庚(かのえ)である。
明治27年当時一高の監督をしていた時に考案がなされた・・・。
命名の瞬間というべき記載が『日本野球創世記』
(君島一郎著・ベースボールマガジン刊)に載っている。
(注;【われら野球人】より孫引き)
「明治27年の秋、ある晩のこと、青井が寄宿舎の片隅で彼の得意のバット『千本素振り』をやっていると、
中馬庚がやってきて息をはずませて『青井。
よい訳を見つけたぞ。
Ballinthefield―野球はどうだい』」